プレイヤーから指導者へ 野球”超強豪校”の元主将が三重県に移住して伝えることとは?

夏といえば高校野球。

全国の高校球児が3年間の集大成を発揮し、阪神甲子園球場で開催される夏の大会で優勝することを目指して戦う、野球少年の誰もが一度は憧れる、高校野球で最高の舞台です。

各地でテレビ中継がされることもあり身近に応援することができるので、甲子園で優勝することを目指す球児たちの姿に、胸を打たれたことのある方が多いのではないでしょうか。

そんな高校野球最高の舞台である夏の甲子園に、野球超強豪校である「大阪桐蔭高等学校」で「主将」「サード」「3番バッター」として出場した経験のある方が、現在は野球指導者となり三重県で活動をされていると聞き、取材をしてまいりました。

その方とは、三重県四日市市で野球指導に特化した接骨院「あかほり接骨院」と、少人数制野球教室「あかほりベースボールアカデミー」を運営されている小林 晃徳(こばやし あきのり)さんです。

彼は大阪府出身で、就職を機に三重県に移住をして来られました。

現在は主に、柔道整復師として信頼できる適切な施術で患者さんに接しておられ、持ち前の明るさと大阪仕立ての面白さが魅力的な人物です。接骨院運営の傍ら、ご自身のプレーヤー経験で得た感覚と柔道整復師として学んだ運動学などの医学的な目線から野球指導者としての活動も行なっておられます。

大阪府出身の彼が三重県で行う野球指導で目指す野球選手の在り方とは。

今回の取材では、甲子園でのエピソードを含めた小林さんの野球選手時代のお話から、現役の野球少年へのアドバイスやメッセージなど、インタビュー形式で前編・後編に分けてお届けしていきます。

ぜひ、ご覧ください!

野球指導に特化した接骨院とは

普段、どのようなお仕事をされていますか?

普段は、四日市市にあるあかほり接骨院で患者さんの施術と対応をしながら、週2回 火曜日・水曜日に、あかほりベースボールアカデミーという室内型野球練習施設で小・中学生に野球を教えるという活動をしています。

あかほり接骨院でも野球の指導を個別でされているとのことですが?

パーソナルで野球の指導をしていて、そこではボールを使わずに野球に必要な動作をメインとして、関節の柔らかさ・筋力の強さであるとか、野球に必要な体の動きを教えています。あかほりベースボールアカデミーでは、接骨院で行っている動作を取り入れつつボールを使った指導をしています。

全ての始まり
野球を始めたきっかけとは

いつから野球を始められましたか?

僕自身やり始めるのが遅くて、小学6年生の9月から始め、大学4年生まで野球をしていました。

野球を始めるきっかけはなんでしたか?

父親が何のスポーツをさせようかなと迷っていて、一緒にサッカーやラグビーを観に行ったり、色んなスポーツを僕に見せてくれたというか。当然野球も観に行った中で一番興味を持ったのが野球で。父親は僕からやりたいと言うのを待っていて、僕が「野球をやりたい」と言ったのが小学校6年生だったというわけです。

小学校の頃、憧れていた選手は?

阪神戦をよく観に行ったので、檜山さん・新庄さん・和田さん・久慈さんなど、当時全盛期で出場されていた選手が好きでしたね。

中学校に上がっても野球を?

小学校ではリトルリーグという硬式のチームに所属していましたが、小学校6年生の12月になったら中学校のチームに行ってねと言われていたので、小学校では3ヶ月くらいしかチームでやらず、その頃からシニアリーグで野球をしていました。

ポジションは?

小学校のころは、ピッチャー。
中学校はキャッチャーでした。

高校は有名な野球強豪校へ進学

高校はかの有名な大阪桐蔭高校とのことですが。推薦が来たのでしょうか?

そうですね、お声をかけていただいて入学できたという感じですね。

中学校でのご活躍があってのことですね。

いやいや、全然活躍はしてないんですけれども(笑)

でもまあ、その地域で言うと有名じゃないですが、ちょっと警戒してもらえる選手だったのかなと思います。

飛躍されるまで結構努力されましたか?

平日は父親に自転車で後ろから追いかけられながら走ったり、素振りは毎日やっていました。素振りは基本的に好きだったので自主的にすることが多かったです。

一日(素振り)何本くらい?

僕ちょっと変わった子どもで、素振りは自分の中でシチュエーションをつけて、例えば「ワンアウト二、三塁逆転のチャンス」みたいな感じでピッチャーをイメージしてぶんって振って「よし、逆転しましたー」みたいな変な素振りしていたので数は多くなかったですけど、イメージをしながらやっていたのが良かったのかなと思います。

入学されてから、甲子園に出られるまでの道のりは?

高校に入った時は、3年生にすごい方々がいたので、場違いなところに来てしまったなと言う印象で、やっていけるかなと感じたことを覚えています。

高校2年生に上がる前に膝を怪我して、一個上の先輩たちが選抜の甲子園を決めていたのでそこにベンチ入りしたいなと練習をしていましたが、膝の怪我と重なりベンチ入りできず、手術することになり、治療に半年かかり、結局復帰したのが新チームになる1ヶ月半前くらいでした。同級生からも離されているなと焦りを感じていました。それ(怪我)が逆に良かったのかなと思います。

キャプテンに選ばれた理由は?

基本的には新チームになった時の同級生の投票で決まり自分たちも投票して決めたのですが、恐らくですが僕は一番多くはなかったと思います。選手からの意見を聞いて最終的に監督が決めるという。

膝を怪我した時に、選抜のメンバーとして入れたいと監督から言われたのですが、膝の状態が本当に悪くてそんな状態で野球できないし、本気で戦いに行くところに流石に立てないなというところで、手術をして自分たちの代で甲子園を本気で目指したいですと答えた言葉が監督の胸に刺さったというか感銘を受けていただき、甲子園に行く気持ちが一番強いんじゃないかということで僕を指名していただきました。

小学校6年生という遅いタイミングから初めて、中学校で段階を踏んで高校へいき、高校2年で怪我をして、それを乗り越え最後には甲子園に行くと。

すんごい輝いてますね(笑)
できすぎたストーリーですが。

高校3年生、最後の夏にかける思いは特別なもの

最後の夏は緊張しましたか?

高校に入った時点で高校3年の夏は特別な思いがあるというか、今までと違う思いで臨むっていうのがあったので、当然緊張もしましたし、不安もありました。

どうやったらこの大阪を勝ち抜けるのかと。それを払拭するには練習しかないなと思って冬の間から全員でテーマを決めて練習をやってきたので、それが夏に向けて自信持って行けたんじゃないかなと思います。

大阪では甲子園へ出場できるのが1校だけですが、全部で何校くらいですか?

当時197校だったと思います。

その中の頂点に立ったということですね。すごいプレッシャーだったと思います。決勝戦。優勝が決まった時、特別な思いはありましたか?

新チームが始まった時に大阪大会の4回戦でコールドで負けてしまい、春の大会も自信を持って臨んだのに、同じ高校に5回戦で負けちゃって、結構心が折れそうになっていたところがあったので、大阪で優勝した時はグッとくるものがあったというか。今までの苦労が報われたじゃないですけど、練習が実を結んだなという感じでした。

一緒にプレーをした選手の中で有名な選手は?

昨年引退しましたが、中日ドラゴンズの平田良介選手と、ジャイアンツにいた辻内崇伸選手が同級生でいて、僕が3年生の時の1年生が、今ジャイアンツにいる中田翔選手というメンバーでした。

中田選手はやんちゃでしたか?

悪いやつではないです。ええやつですから(笑)

高校3年間で一番学びが深かったことは?

野球の技術より、礼儀作法というか。社会に出て恥ずかしくない人間形成を学びました。

そこは監督が一番力を入れていたことで、野球の技術より野球が終わった後の人生のほうが長いので、苦労しないように生きていきなさいっていうので挨拶なり礼儀を教えてもらいましたね。

高校3年間で一番印象に残っているエピソードは?

夏の大会の前に練習試合で三重県の海星高校と試合をして、力負けしたことですかね。

この敗戦は心が折れそうになりました。連戦連勝できていたので勝つ気持ちしかなかったので完敗だったことが、全員の心に火がついたっていうことを覚えています。

三重県の番組だから(笑)ありがとうございます!

いやいや本当のことですので。

甲子園でのエピソード 最後の対戦相手とは

甲子園に出場してからのご活躍は?

ベスト4まで行かせてもらったので、自分たちが思っている以上に力を発揮できたのかなと思いますね。

ベスト4の対戦相手は?

最後の対戦相手は「駒大苫小牧」で、結局その大会で優勝したチームでした。

今、楽天の田中将大投手が当時2年生で投げていたというチームですごいピッチャーでしたね。そんなピッチャーとできたことが良かったと思いますね。

田中投手は凄かった?

見てきた中で一番すごいピッチャーです。球は早いし、コントロールもいいし、変化球もすごく曲がるし、どう攻略しようかとベンチで話し合ったことを覚えています。

そんな中、ご活躍が凄かったと聞いていますが。

僕、そんなに活躍していないですよ(笑)田中投手から二塁打を打てたのでそれは一生の思い出というか。8回だったので疲れの出たところの浮いたスライダーを打たせていただいたという感じです。

甲子園終了・・・その後の進路は

甲子園が終わった後の進路は?

その後は、近畿大学へ進学して硬式野球部で野球を続けました。

高校野球と大学野球の違いは?

高校とはまた違う衝撃がありました。僕らの代の野手陣にすごいメンツが揃ったので、この中で勝ち抜こうと思うと結構大変やなと感じた記憶があります。同級生にこんな凄い奴おったんや…みたいな衝撃がありびっくりしましたね。

近畿大学に進学したきっかけは?

近畿大学に進んだ理由は、高校の担任が近畿大学野球部の元顧問部長さんだったこと。その方が近畿大学出身で、僕のことをすごく可愛がっていただいてたので、同じ大学に行けということでお話を進めていただいて。その先生の指示に従い、行ったという感じです。(笑)

そもそも近畿大学は有名ですし近畿で強かったので、行ってみたいと。特徴的な青いユニフォームにも憧れて進学したいと思いました。

大学野球のレベルは高かったですか?

入った時の4年生のレベルが凄すぎて、今まで見てきた野球とはまた違う野球というか。守備からリズムを作るという堅い守備をされていたチームで。ノックに入れさせていただいても邪魔になるくらい。この人たちに追いつこうと思うと結構練習しないといけないなと思ったことを覚えています。自分が4年生になった時はこういうチームになりたいなと感じました。

大学4年間の功績としては?

大学選手権・全国大会には4回出場させていただいて、ベスト4が1回、ベスト8が1回という感じでまた優勝はできなかったですが、関東が強いと言われている中、関西から躍進できたのかなと。

プロ野球選手は目指しましたか?

目指していましたが、高校の時にドラ1の2人(平田・辻内)を見てしまったので、自分の中で実力が足りないのかなと思っていました。大学の同級生でも2人プロ入りしたやつがいたので、そいつらを見ているとちょっと自分の実力がプロには届いていないのかなと厳しさを感じていました。

大学卒業後の進路は?

野球はやめて、自動車販売のディーラーに就職しました。

プロ野球を目指して色んな企業にセレクションテストを申し込んで受けさせてもらったんですが、自分の実力が足りずに行くことができなかったです。狭き門とは知っていましたが、想像以上に厳しい世界でした。

野球はスパッとやめれましたか?

僕の中でやり切った気持ちがあったので、結構スパッとやめれたというか。重荷ではなかったですけど、ほっとした部分も正直ありましたね。

チーム内でのキャラ的ポジションは?

僕がふざけるタイプなので、皆からは突っ込んでもらうとかっていう感じでしたね。

高校の同級生に会うと、いまだに「お前は俺らの世代のキャプテンじゃない」と言われたりとか、まだ認めてもらってないんやっていう。(笑)そんな感じのポジションです。

愛されキャラですね。

いじられているのか、ほんまに嫌われているのかっていう。

今は子どもたちにいじられている?

今は子ども達に…いじられる時もありますね!

でも、そういうのが僕にはいいかなと。一目置かれる存在より、お兄さん的な感じの何でも相談しやすいなという環境を作りたいので、ちょっといじってもらえるくらいがありがたいなと思いますね。

柔道整復師・野球指導者として三重県へ・・・その経緯は?

社会人になって、三重県に来られるまで進路の変更があったということですか?

そうですね。自動車のディーラーを1年で辞めまして。やはり自分の中では野球に携わる仕事がしたいという思いがあって、高校の担任の先生に相談したところ、履正社医療スポーツ専門学校という学校で柔道整復師という資格がある(目指せる)よということを教えてもらい、その時初めて柔道整復師という資格を知ったんですね。調べていくと、色んなスポーツのトレーナーとしてスポーツ選手に携われる、怪我を治したりする仕事なんだなということに凄い良い仕事だなと感じてもう一回学校に入り直して学ぼう。というのが進路変更のきっかけでした。

そこで3年間学んで、国家試験を受けて合格して、学校の方から三重県にいい病院があると紹介してもらって。僕も、怪我やスポーツに強い・特化した病院でもうちょっと勉強しながら働けたらなという思いがあったので、三重県四日市市の富田浜病院を紹介していただき、就職する形になって三重県に来たという感じになります。

大学まで野球をされ、一度野球から離れて一般企業に就職をした後、やはり野球に携わる仕事がしたいとやりたいことを成し遂げるため勉強をし、転身をされたとのことですね。

次回

後編では、三重県での就職以降、あかほり接骨院を開業され現在に至るまで、野球指導の現場風景と併せてご紹介して参ります。最後には小林さんからのメッセージも!

YouTubeでは記事の内容を小林さんの言葉でお聞きいただけます。

是非、ご覧ください!

後編の記事はこちら↓

〜三重県で活躍するすべての人、通称「ミエタイマー」〜

ミエタイムでは、今後もあらゆる場所で活躍するミエタイマーにスポットを当て、ミエタイマーの紹介はもちろんのこと、ミエタイマーを通して「三重県の魅力」を全国へ紹介していきたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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fukumina

fukumina

ミエタイムの専属ライターとして日々活動中♪ 三重県に移住し10年以上経過したので立派な三重県人だと勝手に思っています!企業やお店、三重県で活躍する方々へインタビューにお伺いし、リアルなお声を皆様に届けます。

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